ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『二つの季節しかない村』
決定的な出来事が起こり、怒髪天を突いた翌日。生徒や教師たちへの不信をMAXにたぎらせて、雪降る学校に真っ黒のグラサンをかけて参上する美術教師・サメット。一時が万事、卑屈で嫉妬深く、リベラルな知的階級を気取るが、衝動的で権威主義。最低キャラのフルコースを地で行くような男が、壮大な自然に囲まれた僻地である村を憎み、心の底から軽蔑し、そこから出ていくことだけを望んでいる(こんなやつが主人公とは先が思いやられる)。そんな心性だから、「お前たちは一生ジャガイモでも作ってろ」とか、平然と田舎者を小馬鹿にして高圧的な態度を崩さないのだが、一方では強烈に尊敬されたがっている。その様は、村に駐在する軍人の権威的な姿とも重なるのだが、そんな軍人とは実際に業務時間中用事をかこつけては執務室に赴き、サッカーゲームを対戦プレイするようなズブズブの仲。獣医の診療所や、職員室など、至る所でこの種の抑圧的なコミュニケーションが散見されるが、そんな構造をさらに俯瞰して軽く冷笑してみせる主人公も、その構造から最大限の利益を享受している受益者であるのに、本人はそのことに本気で気づいてすらいないだろう。そんな彼が「結婚には興味がない」とうそぶくその理由は明らかにはならない。街を憎む気持ちが、義足の女性教師・ヌライに指摘されたように、行動が出来ないのか、それとも。…嫌な予感が頭をよぎる。というのも…。
依怙贔屓を指摘されただけで激怒するぐらいに入れ込んでいた、教え子の美しい優等生・セヴィムへの偏愛は、ある事件をきっかけに音を立てて憎悪にひっくり返ると、学校はさながら地獄の顕現と相成る。こっそり彼女にだけお土産を買っていくなど、日頃良くしてくれている自分に対する恋文と思ったのか、彼女から没収した秘密の手紙をこっそり読んで止まらないニヤニヤを隠して、「手紙は読まずに処分した。細かく裂いたから安心しろ」などとしかつめらしく何度伝えても「手紙を返して欲しい」と生徒は不信を隠さない。このちょっとしたいざこざがエラい騒ぎに発展すると、愛情は反転し、ひたすらに暴力的なコミュニケーションが生徒たちを圧倒する。
こうした抑圧的で権威主義的な心性は、女性教師・ヌライとの会話の中でも顕になっていく。隣にいるお前よりも優れていることを証明したいというだけの下心で以て近づいてくるサメットに対して、ヌライの言葉は冬の寒空を吹き付ける氷の礫のごとく鋭く痛い。その痛みを隠すように、何もかも知っている自分は、当然ヌライの考えているようなことは全部わかっているので、お前のやること考えることには何も意味がなく、何をやっても無駄なんだ、という理屈で彼女の理想や行為を否定しにかかるサメットの闘いは、予想に反して防戦一方である。自分は高みにおり、当然全てを知っているはずだから、預かり知らないところで何かが起こっていることに我慢ならない主人公の心性に、服薬でもしなければやってられないぐらい、演じる役者ですら耐えられない(という描写としか判断できないシークエンスがある。仰天しすぎて吐くかと思った)。結局、自己中心的である、ということなんだと思う。それも病的に。
この村には、季節が二つしかない。草は生えてすぐに黄色く色づいてしまう。どこにマイクを仕込んだんだ?と思うぐらいの音量で鳴り響く息遣いや衣擦れ、目線や表情が、セリフ以上に感情を物語る3時間17分。あっという間でした。
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『雪の轍』/踏み固められた悪意の上に生きる
とにかく、主人公アイドゥンは徹底的に嫌われている。元俳優にして地元の名士である彼の前で、人々は張り付いたお追従笑いを続け、見えなくなると「あのクソ野郎が」と吐き捨てるし、それ以外の人々はもはや彼への軽蔑を隠さない。幾度となく繰り返される口論中に指摘される以上に、何か決定的な理由があったのかは分からないまま、とにかく主人公が嫌われ続け、同時に観ている側も雪が積もっていくかのごとく、薄っすらとしかし着実に彼のことが嫌いになっていく。
アイドゥンと部下のヒダーエットが運転するトラックが、投石による攻撃を受ける。犯人は、アイドゥンの父親が持つ家に住み、家賃を滞納しているイスマイル家の息子イリヤス。アイドゥンたちは、逃亡中に川に落ちてずぶ濡れになったイリヤスを送り届ける、という善意の衣を被って、彼らの住む家に向かうと、酒浸りのイスマイルによって逆に脅されてすごすごと帰ることになる。
地元の新聞に寄稿する作家先生としての顔も持つアイドゥンは、そうした経験を踏まえ、地元の退廃を告発すべくペンを執ると、その態度が出戻りの妹ネジラの批判を呼ぶ。悪とどのように対峙すべきか。「悪には抵抗すべきではなく、自戒を促すべきである」というネジラの信念は、別れた夫への「許し」を考えるきっかけとなるが、アイドゥンもその若く美しい妻ニハルもその心情を理解することが出来ない。
三人の議論は、お互い全て筋が通っていて、全て理想論であり、全て矛盾している。破綻し、空中分解する、議論の残骸である。教養ある落ち着いた大人の態度を崩そうとしないアイドゥンは、破綻した議論を気取った手付きで修復しようとするが、その気取りが邪魔をして、議論は順調に惨めな口論へと移行する。
アイドゥンとニハルの関係は完璧に破綻していて、修復を試みるよりも互いに干渉しないことが唯一の正解のよう。そんな中、慈善家としてのニハルの活動に、年の離れた「教養ある 大人」としての気取った態度で口を挟むアイドゥン。確かにニハルの事業家としての能力もかなり怪しいものだが、それを偉そうに指摘し、大人の私が助けてやると手を出し、面倒くさくなって放り投げるアイドゥンもなかなかのもの。
もう、これは、人生を賭して共に何かを成し遂げるような関係ではないのかも。お互いがお互いの理屈で匙を投げると、遂に誰も彼もがバラバラで、孤独な存在であることに気付かされる。善意によって舗装された道は、悪に通じている。カッパドキアの小さな村に降り積もる雪のように、薄っすらと着実に積み重なってきた「悪」の上で、如何なる態度で生きていくべきなのか。ドロドロと垂れ流した悪意の層を、改めて踏み固めて見せるヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督のカンヌ映画祭パルムドール受賞作。3時間15分の大作ながら、2時間半ぐらい観た辺りで、もう1時間延長できねえかな?と思うほどの傑作でした。